核燃料サイクルは『悪循環』『負の連鎖』というサイクル
「核燃料サイクル」とは、原子炉から出た使用済み核燃料を再処理し、核燃料として再使用できるようにすること、そして放射性廃棄物の処理・処分を含む一連の流れとその「循環」を意味します。 しかし、この「サイクル」という言葉と実態とは、大きくかけ離れています。
まず、核燃料サイクルの要となる高速増殖炉は、MOX(プルトニウム239とウラン238の混合)燃料を燃やし、「プルトニウムを増殖させる」とされているものですが、多くの技術的困難(冷却材に水ではなくナトリウムを使用すること、プルトニウムの挙動自体が未解明なことなど)を抱えており、諸外国では大惨事寸前の事故を経験してすでに撤退しています。巨額の開発費(約1~2兆円)をつぎ込んだ日本の「もんじゅ」も、試運転中のナトリウム火災事故(1995年)から停止したまま実用化のめども立っていません。そしてこの高速増殖炉が実現しなければ、使用済み核燃料からプルトニウムを取り出す青森県六ヶ所村の再処理工場にも存在意義はなくなります。また、この再処理工場も、セラフィールド(英)、ラ・アーグ(仏)など、海外で事故が多発しています。
核燃料サイクルの中で重要な位置にあるこれらの施設の機能の見通しは立っておらず、「サイクル」は破綻しているのです。通常のウラン燃料より危険なMOX燃料を軽水炉で使用しようとするプルサーマル計画は、この破綻をごまかすためのものでしかありません。
たまり続ける「核のゴミ」
また、原発の運転によって産み出される核燃料廃棄物の処理も行き詰まっています。廃棄物の処理地も処理方法も確立しないまま、青森県六ヶ所村、茨城県東海村と各地の原発施設内に膨大な量がそのまま暫定的に置かれているのが実情です。特に原発構内でプール中に保管されている使用済み核燃料の安全管理についても課題を抱えており、2011年3月の東日本大震災で被災した福島第一原発4号機(当時停止中だったが燃料プール部で水素爆発)の建屋が再び地震に見舞われた場合、同プール部の冷却システムの損壊による温度上昇や燃料棒の露出、大量の放射能漏れも危惧されています。原子炉本体だけでなく、こうした危険が至るところにあるのが「核燃料サイクル」の実態です。
日本学術会議は、2012年9月、廃棄物処分について「(地震や津波などによる長期にわたる安全性への信頼がないことを踏まえた)政策の抜本的見直し」「現代の科学・技術的能力では、千年・万年単位の安全が必要な地層処分に伴う危険性を完全には除去できない」「暫定保管と総量管理を柱とした政策の再構築」「多様な利害関係者や意見の異なる人々による討論と交渉のテーブル」「負担の公平性に対する説得力ある政策決定手続きの必要性」などの見解と提言を示しています。学術会議は原発の「安全神話」形成に一定の役割を果たしてきた組織ですが、この見解と提言は、「科学的」立場から見ても、現在の核燃料サイクル・廃棄物処理政策が根本的に行き詰まっていることを客観的に明らかにしたものとも言えます。
原発推進こそ無責任
さらに、原発の燃料となるウランの採掘場(オーストラリアなど)では、甚大な環境破壊と作業員(多くは先住民族の人々)の健康被害が深刻化しています。「核燃料サイクル」の出発点から、そもそも大きな問題を抱えているのです。
原発推進派は、「脱原発は無責任」「代替エネルギーを示せ」などと言っています。しかし、原発推進政策は、それを維持するための「サイクル」自体の破綻と断裂によって、運転・再処理・中間貯蔵・最終処分などにおけるさまざまな問題や課題がさらに深刻化するという、文字通り「悪循環」「負の連鎖」という「サイクル」に陥っています。この巨大で複雑な問題にかけられてきた労力や予算の規模から見れば、再生可能エネルギーの拡大への障壁を取り除くのはたやすいことです。原発推進政策こそ、世界と日本の特定の地域や将来世代に負担とリスクを強いる、その場しのぎの無責任政策と言えます。
原発推進政策と「核燃料サイクル」には、現段階でそれらから撤退してもなお解決しなければならない課題が山積しています。見通しの立たない構想にしがみつき、これ以上解決を先延ばしにして問題を深刻化させるのではなく、ただちに一連の政策を停止させ、その問題解決のための科学的・技術的・政策的研究や検討にこそ、十分な予算や社会的・政策的資源を充てる必要があると私たちは考えます。