【報道】 7/29 朝日新聞〈ザ・コラム〉直接民主主義「文明への問い」が生む機運
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■根本清樹(編集委員)
作家の大江健三郎さんが7月16日の「さようなら原発10万人集会」(東京・代々木公園)で語った言葉にしたがえば、それは「群衆という印象ではない」。そうではなくて、「ひとりひとりの注意深い市民たちが、個人の意思によって集まっている」。 首相官邸前で。全国の街頭で。 福島原発事故を機にはじまった人々の様々なかたちの直接行動が、かつてない広がりをさらに広げながら持続して、この夏、ひときわ大きくなっている。 作家の落合恵子さんは10万人集会で、「再稼働反対!」を訴える抗議の声への野田佳彦首相の反応に触れた。
「私たちの声は『大きな音』ではないのです。声を音というのは民主主義ではありません。本当の民主主義とはなんなのか、教えてあげませんか」 確かに「注意深い市民」らのうねりは、議会制民主主義ではないかもしれないが民主主義そのものであり、政党政治ではないかもしれないが政治そのものである。
かれらは、新しい「政治空間」をつくりだす。 毎週金曜日の夜、官邸前からすこし離れた国会議事堂正門前の歩道には「ファミリーブロック」がもうけられ、乳児を抱いたお母さんや、家族連れが集う。「赤ちゃん守れ! いのちを守れ!」 はす向かいには「ドラムデモ隊」がいて、地響きのようなリズムを夜空に放つ。若い女性らが「これって盛り上がるよねえ」と、音に合わせて手拍子を打ち、からだを揺らす。 国会前交差点の長い横断歩道を、無数の人々が白い風船を手に手に、右から左へ、左から右へと行き交う。
◇ 街頭での行動だけではない。 原発国民投票や住民投票の実現を求める市民の運動が昨年来、粘り強く続く。直接民主主義の仕組みを使おうという機運が、これほど盛り上がったことは過去にない。 歴史的な政権交代後も機能不全が続く間接民主主義への絶望? 国家的危機のさなかに政争を繰り返す政党政治への嫌悪? しかし、有権者の政治家不信や政党離れなら、目新しいこともない。これまでの無党派層は、選挙のときに「寝ていてほしい」といわれることはあっても、街頭を埋め尽くして声をあげたりはしなかった。 なにかが以前と違う。
きのう7月28日、日本版の「緑の党」が旗揚げした。地方議員ら1千人の市民が、国政をめざして始動する。 「原発全廃」の実現が政策の要である。そのために直接民主主義を使うという。 彼らの掲げる理念に、いま日本で起きていることを説明するひとつのカギがあるように思う。その主張は構えが大きい。
「私たちは、石油と原子力に象徴されるエネルギー大量消費型の文明に、踊り、踊らされてきた」 「自然を征服と操作の対象としてきた近代の文明的枠組みからの大転換をめざす」 「経済成長優先主義から抜け出す」 こうした議論は、「成長の限界」が世界的に意識された前世紀の第4四半期以降、繰り返し唱えられてきたが、「非現実的」という批判もやむことがなかった。 原発事故後のいまはどうか。 思い返せば、政府の復興構想会議も昨年6月の提言で、こう述べていたのだった。 「大自然の脅威と人類の驕(おご)りの前に、現代文明の脆弱(ぜいじゃく)性が一挙に露呈した。われわれの文明の性格そのものが問われている」 事故は、こうした省察に人々をいざない、街頭へと背中を押す決め手の一撃だったろう。そして、この問いを等閑に付したままの再稼働が、火に油を注いだ。
◇ いまの流れは、日本政治の「質」を深いところから変えていくかもしれない。 一橋大の阪口正二郎教授(憲法学)によれば、民主主義のあり方は二つの次元にわけられるという考え方がある。 一つはいわば日常的な政治、ぶつかりあう利害になんとか折り合いをつけていく調整と取引の政治である。ふつうの人々は政治に特段の深い関心は持たず、「私人」としておおむね自分の利益に気を配る。 ところが、まれに一段高いレベルの政治がたちあらわれることがある。 直面する危機を乗りこえるため、国の基本的なあり方を変えなければならないという意識が社会に共有され、私益を超えた熟議が重ねられる。人々は能動的な「市民」として、いわばWe the people(われら人民)として政治に参加する。 阪口教授はいう。「原発推進と経済成長の追求は、ともに戦後日本の『国策』であり、この社会を支配する根本原理だった。それをいま人々が自覚的に変えようとしているとするなら、政治は第二の次元に近づいていく」 一足飛びに、とはいくまい。人の心は移ろうかもしれない。それでも今、日本の政治が分水嶺(ぶんすいれい)にあることは確かだと思える。
きょう7月29日、いつもの金曜日ではないが、脱原発の「国会大包囲」がある。