【インタビュー】 緑の政治を考える 宇都宮けんじさん(1/4)
「緑の政治を考える」では、緑の党の理念と合致するような思想・運動を展開されている方々へのインタビューを通して、緑の思想を掘り下げていきます。
第一弾は緑の党が提唱する底辺民主主義、草の根民主主義の精神を体現するような活動を長年続けて来られた宇都宮健児さん。都知事選を通して市民運動、選挙、民主主義のあるべき姿、その育て方について訴えて来られました。その確固とした信念の背景となった、お考えや経験についてお話しいただきました。
2時間に渡るロングインタビューを4編に分けてお届けします。
── 今日はお忙しいところをありがとうございます。まずは都知事選挙、たいへんお疲れさまでした。有権者数1000万人以上の東京都知事選挙をたたかわれて、いかがでしたか? 都知事選に出てみようと思われた理由、またその思いはどんなものだったのでしょうか?
実は都知事選に出ることについて考えたのは、今回が初めてではないんですね。2009年にも、2011年の都知事選に向けて、市民の方から出馬の依頼がありました。でもそのときは、心理的なハードルが高く、逡巡したけど結局、出なかったんですね。それで、その翌年、2010年には日弁連(日本弁護士連合会)の会長選挙があったので、そこに出て、そして当選して、2010年4月から2012年の5月まで日弁連の会長を務めました。その在任中に、東日本大震災と原発事故が発生した。
日弁連は震災当日に東日本大震災原発事故対策本部を立ち上げ、被災者と被害者の支援活動を行ってきました。私自身もすぐに現地を視察して、被災地域の弁護士会、あるいは全国の弁護士会と連携を取って活動をしてきました。
日弁連はその間、何度か原発の問題について意見書を出し、また原発政策の転換を求める決議もあげているので、私自身は会長任期を終えた後も、多重債務・貧困問題と同時に、脱原発運動にも取り組むようになっていきました。
2012年10月に石原慎太郎さんが突然都政を投げ出し、急遽、都知事選が行われることになり、そのときにまた声がかかったので、今度はお引き受けすることにしました。2011年3月11日の震災以降、世の中の考え方は一変し、また私自身、貧困問題だけではなく原発問題などへの関心も強く持っていたので、都知事選の重要なテーマの一つとして、「東京から脱原発」を発信することは非常に大事なことだと考えました。
東京都は福島原発で発電された電力の最大の消費地であり、かつ東京電力の株主で、東京都民や東京都には原発事故の被害者に対して責任があります。東京都は原発事故被害者に対し最大限の支援をすべきで、また東電の株主総会でも、福島第一・第二原発や、柏崎・刈羽原発の廃炉を提案することができる立場にあります。
そして東京都は本来、財政的には豊かな自治体のはずなのに、全国平均以上に貧困と格差が広がっています。ですので、これらの解消と福祉の充実を訴える必要もありました。
また、2012年の初めごろには、民主党の野田内閣が「秘密保全法」を国会に上程する動きがあり、その後、「特定秘密保護法」と名を変えて自民党の安倍政権下で提案され、昨年(2013年)末の臨時国会で強行採決されてしまいました。これは国民の知る権利や、報道・取材の自由を侵害する、非民主主義的な立法提案です。日弁連は民主党内閣が「秘密保全法」を国会に提案するより前に対策本部を作り、メディアの人たちとともに反対運動を起こして提案を阻止しました。しかし同時進行で、憲法改悪の動きも強まっていった。本来、民主党はそういう政党ではなかったのに、野田政権になってどんどん自公政権に近くなっていきました。消費税増税も、そのときに決められています。
こうした日本の右傾化に危険を感じ、特に2012年の4月、石原さんがアメリカに行って、「尖閣諸島を購入する」と言いだしてから、マスコミで「領土問題」が頻繁に取り上げられるようになり、中国との関係が悪化していく。そして野田政権が9月に尖閣を国有化すると決めた結果、中国とは決定的な対立に至る。中国の艦船が日本の領海に入ってきたり、航空機が領空侵犯してきたりして、メディアがそれらを報道する中で、国家主義的、ナショナリズム的な傾向がどんどん強まっていった。そうした動きにあわせて、当時の「(大阪)維新の会」が急速に支持を広げていきました。
ですから、脱原発政策、反貧困・福祉の充実、それから憲法を守る、この3点が、非常に重要な課題になっているという認識が、2009年に打診されたときとは比較にならないくらい自分の中で受け止めることができていたので、即答できたんですね。「他にいなければ、私が出ます」と。そして、2012年12月16日に行われた都知事選挙に出ることになりました。
── 秘密保全法、消費税増税、尖閣国有化……。今の安倍政権が誕生するための土台、布石のようなものがそのときからすでに作られつつあったとうことですね。ガタガタと崩れ始めているいろいろなことに対して危機感を強く感じ、即答された。
そうですね。前回と比べても腹が固まっていたので、逡巡することはありませんでした。
── これまで数々の困難を切り開かれてきた宇都宮さんでも逡巡されたというのは、どういったところでですか?
それは、これまで私は弁護士という立場で、多重債務問題や貧困問題、消費者問題に取り組んできましたが、これは弁護活動の中でも、ごく一部の分野です。しかし行政となると、非常に多面的な分野を扱いますし、都の予算は一般会計と特別会計で計13兆円、これはスウェーデンの国家予算並みの大きさです。そして都は何万人もの職員を抱えています。そうした中でマネジメントしていくには、相当の能力が要求されます。だから、準備期間があるならまだしも、自分の任には負えないのではないかと思ったのです。
弁護士会の会長選挙のほうも、最初はそうした気持ちで受け止めていました。日弁連の会長選挙というのは従来、東京と大阪の弁護士会の派閥の候補者間の争いであって、会長にはそれぞれの弁護士会の会長経験者しか就いていません。弁護士会の執行部を経験すると、「弁護士会内政治」にある程度精通するからということもあるのでしょうが、私は無派閥だし、所属する東京弁護士会の会長もしたことがなかったので、日弁連会員3万数千の弁護士を束ねていくような手腕を持てるかどうか迷いがありました。けど都政に比べれば弁護士会の扱う範囲は限られているし、同じ弁護士業界だから、何とかやれるのではないかという気持ちがあり、受けることにしたのです。
── 日弁連会長選挙のときも、出馬の要請があって出られたのですか?
そうです。一部の人から、2009年当時は、2000年の初めごろから行われた司法制度改革のいろいろなひずみが表れはじめていたころでした。
特に弁護士数が急増する一方で事件数はあまり増えず、生活の苦しい弁護士が出てきていた。ある意味、増やし過ぎだったんですね。それから、以前は大学の法学部を出れば皆、司法試験を受けることができたのに、ロースクール(法科大学院)に通わないといけなくなったので経済的な負担が大きくなり、弁護士や裁判官、検察官というのは、経済的余裕のない人は目指しにくい業界になってしまったんです。
── 司法制度改革は、何のために行われたのですか?
いろいろな見方がありますが、その問題点については私が最近出した『希望社会の実現』(花伝社)の中で詳しく触れていますので、ぜひ読んでいただければと。
それで、それまではその派閥の中で、「主流派」と言われる候補が当選してきたのですが、会長選挙には司法制度改革に批判的な候補者(反主流派)も出ていて、主流派は、だんだんと迫られていたんですね。得票差が接近し、次は主流派が負けるのではないかと。
そのとき(2010年2月)の選挙では、反主流派の候補者に「勝てる(であろう)」主流派の候補者が見つからず、どちらかと言えば主流派の中から、あの候補に勝てるのは、宇都宮しかいないのではないかということで声がかかった。
ところが途中で、出馬することが決まっていた反主流派の候補者が弁護士会の懲戒にかかっていることが分かり、その候補は被選挙権がなくなることが明らかになった。すると主流派は一転して、誰でもいいので従来通り派閥の中から候補を立てて順当にいくということを言い出し、「もう出る必要ないから」と、私を降ろしにかかったんです。降ろすための説得は、私の非常に親しい人たちを通じて行われました。
私はいったんは覚悟していたので、かえってムカッと来た、人を何だと思っているんだと。私自身、何ら意図がなかったところで要請されて、一度は大変な決断をした。それなのに、あんたはもう用済みだと。しかも私を降ろす口実が、今回(2014年都知事選)とよく似ていたんです。「宇都宮さんは無派閥だから、仮に出たとしても、主流派の助けを借りなければぼろ負けしてしまう」「宇都宮さんが傷つくのを見たくない」「主流派が応援しなければ泡沫候補になる」などなど、さも私のことを考えているかのような感じで降ろしにかかったんです。もう頭に来てね、「だったら、やってやろうじゃないか!」と。長年一緒にやってきた二人の仲間と相談して、一切、派閥の力は借りずに、とことん、やってやる! と決断したわけです。
展望があるかどうかはまったく分からなかったけれども、フタを開けたら地方の弁護士会が私を圧倒的に支持してくれていました。1回の投票では結論が出ず、再投票が行われ、2回目の投票では全国52の弁護士会の中で45~46会が私を支持をし、得票数も主流派の派閥の候補を大幅に上回り、当選できたのです。
── 日弁連の会長選挙というのは、どんな選挙なのですか?
弁護士会というのは、ある意味、公職選挙法などより優れているんですよ。3万数千人の日弁連会員全員のところに、自分の所信を書いたはがきを3回は出せますし、日弁連の選挙管理委員会が主催して、北海道から九州、沖縄まで、全国10カ所で公聴会を開くのです。そこでは候補者が所信を表明して、参加者から質疑を受ける。質問は事前に寄せられるものもありますが、その場でされることもあるし、また、他候補の所信への批判もそこで行います。
── そういったことを積み重ねていくことで、ご自身に変化はありますか?
やっぱり鍛えられますよね。その日弁連の会長選挙の取り組みも、都知事選と同じくらいしんどかった。むしろ、都知事選の方がラクだったかもしれません。
というのは、会長選挙は1月の初めに公示で2月の初めが投票ですので、まず前年(2009年)の10月頃から12月にかけて、北海道から九州、沖縄まで52ある弁護士会を全国行脚して、その合間に各支部を回る。例えば静岡県には浜松、沼津、静岡と3つの支部があり、それぞれ80人位ずつ弁護士がいますので、3カ所を回り、そこでその地域の弁護士さんとも意見交換をするわけです。
だから、都知事選は都内だから毎日家に帰れたけれど、弁護士会の選挙のほうは全国を転々として、場合によっては何日かは地方のホテルに泊まり、朝食も食べないで朝5時頃出発して、1日に2カ所くらい回る。沖縄に行ったときは、11時頃那覇に着いて、お昼ご飯を食べながら沖縄の弁護士会と意見交換し、午後2時頃の便で熊本に飛び、今度は熊本県弁護士会で意見交換。そういった強行軍をやっていたから、ヘトヘトになりましたね。その中で政策を作っていくわけですし。
さらに公示後は、日弁連の選挙管理委員会が主催する全国10カ所での公聴会がある。そんなことをする中で、候補者として鍛えられていくわけですね、自分の得意な分野だけでなく、いろいろな質問に答えていかなければならないから。裁判員裁判をどう考えるか、司法制度改革をどうとらえるか、法曹養成、つまり裁判官・検察官・弁護士の養成はどうあるべきか──。その準備期間というのは、全般的に考える契機になるし、自分なりの言葉で語ることができるようになるための非常に重要な期間でしたね。
── 選挙の雰囲気はどうなんですか? 結構、盛り上がるのですか?
それまでは派閥主導だったから、選挙戦にはあまり熱も入りませんよね、主流派が勝って当然という感じでした。派閥以外の候補が日弁連会長になったというのは、しかも弁護士会の会長経験者でない人が日弁連会長になったのは、私が初めてなのです。戦後60何年間、日本弁護士連合会の歴史ではじめて。