【インタビュー】 緑の政治を考える  宇都宮けんじさん Ⅲ

シリーズ:「緑の政治を考える」のコーナーでは、緑の党の理念と合致するような思想・運動を展開されている方々への活動インタビューを通して、緑の思想を掘り下げていきます。

第一弾は緑の党が提唱する底辺民主主義、草の根民主主義の精神を体現するような活動を長年続けて来られた宇都宮健児さん。

都知事選を通して市民運動、選挙、民主主義のあるべき姿、その育て方について訴えて来られました。確固とした信念の背景となったお考えやご自身の経験をお話しいただきました。

前半の第一編第二編では、日弁連会長選挙と東日本大震災をまたいだ会長時代の職務経験、そして都知事選について語って頂きました。

後半の第三編、第四編では、日本の市民運動・消費者運動史に燦然と輝くクレジット・サラ金運動の30年を振り返りつつ、私たちはどのようにすれば市民運動を大きくして国の政策を変えていけるのかについて考えていきます。

 


──宇都宮さんはこれまで、数々のたいへんな局面を乗り越えていらっしゃったと思いますが、これまでで一番大変だったのは、どんなことですか?

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  それは、駆け出しのころですね。私は事務所を2回クビになっているんです。クビというのは、「あなたはいらないよ」ということだから、全人格を否定されたような気になるんですね。そのときは本当にしんどかったです。給料をもらってその事務所の仕事をする立場の弁護士のことを「いそ弁」(居候弁護士)と言い、通常は34年したら独立していくのですが、私はそのいそ弁を一つ目の事務所で8年、二つ目の事務所で4年もやりました。最初の事務所のとき、肩たたきをされたのはその1年前ですが、もう1年間だけ待ってほしいと交渉して1年延ばしてもらった。その間に自分のクライアント(顧客)を増やしたり営業努力をして、独立で きるような基盤を作ろうと思ったのですが、そんな急にお客を獲得できるはずもない。それで私は何をやったかと言うと、水道橋にある大原簿記学校という税理 士とか公認会計士になる人のための予備校のような学校で商法を教えました。税理士や公認会計士になるための必須の教科は簿記などですが、唯一法律科目とし て商法がありました。その商法を教える先生を探しているという話を知り合いの弁護士が持ってきて、お金になるなら何でもやろうと思って、1年間教壇に立ちました。それで一定の給料はもらえた。

  ただ、当然それだけでは独立はできません。事務所を構えれば家賃を払わないといけませんし、事務員さんを雇えば給料を支払わなくてはならない。でも、よくよく考えてみたら、自分は予備校の講師になるために弁護士になったわけではないのだから、もう一度弁護士事務所を探そうと思い、弁護士会に相談して就活をしました。

 新人の弁護士というのはまず、いそ弁を早々に卒業して独立した事務所を構えられるかどうか、そこでまず大きく差がつきます。それからさらに独立した上で、いそ弁を雇っているかどうか、それが次のステータス。修習を終えて23年目頃になると、弁護士会の控室で同期生と会うんです、「元気でやってるか」「今どんな事件をやってるか」って。でもいそ弁の私は、「6年も7年も経っているのに、まだいそ弁なのか」と言われるのでそれがいやで、弁護士会にも近寄りたくなかったんです。8年も経っているのにまだいそ弁というのは、恥ずかしいことなんですよ。

 でも背に腹は代えられないから就職先を探すのだけど、8年もいそ弁やっていた人間が法律事務所を訪ねていっても、当然、前の事務所で何か悪いことをやったんじゃないかとかいろいろ勘ぐって、なかなか採用してくれないんです。4つ目でやっと採用してもらえました。

  でも、事務所の事件はあっても自分の手帳を見るとまったくの空白。仕事がないというのは、非常にしんどかったですね。そのころは江戸川区の南小岩というと ころのアパートに住んでいたのですが、「大江戸」という喫茶店でモーニングを食べながら、漫画雑誌の『モーニング』を読んでいましたよ、島耕作とか播磨灘 (『ああ播磨灘』)とか。 



──播磨灘!(笑) 

 漫画で励まされながら、だいぶ腐ってましたね(笑)

 

──宇都宮さんが、腐ってたんですか(笑)。

 あまり意気が上がらないって言うかね。その辺の転機になったのは、2回目の事務所でいそ弁を始めたころです。1970年代の終わりごろで、サラ金が大きな社会問題にな り、弁護士会に相談者がたくさん来るようになっていた。だけど、誰もそんなものを扱いたくなくて、たらい回しになっていたんですね。弁護士会の職員も困っ て、誰かやってくれる人がいないかと思っていたところ、暇なのが一人がいるということで、私のところに回ってきた。

 サラ金事件といっても、よくわかっていなかったのですが、どんな事件でも紹介してもらえるのはありがたいと思って受けたんです。でも、他の弁護士や先輩にやり方を聞いても、誰も扱ったことがないというので、とりあえず見よう見まねで始めるようになりました。


──多重債務の方などはそれまで、どうされていたのですか? 断られていたんですか?

 そうですね、弁護士会でサラ金事件を受ける人はいなかった。債務者は一人平均10社、20社から金を借りています。「貸金業規制法」が成立したのは1983年ですが、この法律ができたことにより、取り立て を規制したりすることができるようになりました。それまでは、サラ金を規制する法律が何もなかったんですね。今のヤミ金とそう変わりません。武富士とかアコム、プロミス、レイクとか、みんな今のヤミ金融とそう変わりはなかった。

 だから、10社、20社から借りている人は、ヤクザみたいな連中を相手に10社、20社と交渉しないといけない。当然弁護士はそれをいやがりますし、借りている人は皆、お金がないから借りているわけで、弁護士料を払ってもらえないのではないかと心配して引き受けたがりませんでした。

  弁護士会には法律相談センターがあり、さまざまな法律相談を行い、事件の受任もできるのですが、離婚事件とか相続事件などは受けても、サラ金事件といったら、もうみんな顔をしかめて、たらい回しにしてしまっていました。

 当時の新聞記事には連日、「サラ金によて一家心中」とか「サラ金苦 夫婦が自殺」、「サラ金とりたて1614189_693922837345968_6986835348102021277_o居候」といった見出しが並んでいました。 

──まんべんなく、いろいろな新聞が取り上げているんですね。   

「犯人はサラ金苦自衛隊員」「看護婦を誘拐」。「通夜ので取り立て 香典全部よこせ」「店長三人逮捕」……と、こういうのが横行していました。

 

 

──宇都宮さんが初めて、弁護士費用の分割払いということを始められたと聞いています。それは、それでも経営が成り立つ見込みがあったのですか?

 そこら辺はまだ全然、不安でしたけどね。

 弁護士の約1割は経営者側弁護士、つまり大企業の顧問弁護士などです。そしてまた1割が労働組合の事件を扱うような労働弁護士系、そして残り8割が市民弁護士系といって雑多な事件を扱う弁護士です。私が勤めた最初の事務所と2回目の事務所が一般の市民弁護士の典型だと思いますが、中小企業の顧問を何社か持っていて定期的に顧問料が入り、それ以外に相続事件、離婚事件、借地借家事件、交通事故事件などをやりながら事務所を維持しています。

 それで、私はサラ金事件を引き受けてはみたものの、サラ金事件のやり方が誰に聞いてもわからない。とりあえず、被害者と一緒に、新宿とか池袋、渋谷などの繁華街にあるサラ金の店舗を11軒、「私が今日この人の代理人になったから、もう本人への取り立てはしないでくれ。もし何かあったら私の事務所に電話をかけてくれ」と名刺を渡して回りました。そして、これまでにどれだけ貸して、どれだけ返済されているのか明細を出してくれと。

 そうするともう翌日から、弁護士事務所にギャンギャン電話がかかってきて、「ぼけ、かす、この野郎、宇都宮はおるか」「早く金払わんか!」「金も払えないような代理人ならすぐ降りろ! 俺たちが直接取り立てる」と、そういう電話が10本も20本もかかってくるのです。中には、弁護士がついたとしても直接取り立てに行くサラ金業者がいるので、夜中でも早朝でも、依頼者から、「サラ金が取り立てに来てるから追い返してくれ」と電話がかかってくる。こういうことが日常茶飯事でした。

  すると弁護士会は、これはいい弁護士を見つけたというか、依頼者をどんどん送って来る。10人を引き受けたら100社、200社、20人を引き受けたら400社……。さすがに体が持たなくなってきたので、弁護士会の委員会に入って、若くて正義感がありそうな弁護士に、人の命がかかっている事件だからぜひ一緒にやってほしいと声をかけて、1980年の2月に東京弁護士会にサラ金専門の相談窓口をつくりました。そのとき、お互いの弁護士の申し合わせとして、「お願いします」と言われたら必ずサラ金事件を受ける、たらい回しにはしないというルールをつくりました。

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 これはもう画期的なことでした。サラ金相談窓口には途切れることなく相談が寄せられました。しかし弁護士の数が足りず、その日のうちに処理できなくなり、次第に予約制になっていって、混んでいるときは3カ月先ぐらいの予約になってしまった。そうすると、サラ金の取り立ては毎月月末に来るから、耐えられなくて夜逃げしちゃう人が出てきてしまうんですね。それで、予約した人の半分も来なくなってしまった。

 そのうち、弁護士会の周りに得体のしれない人物がウロウロするようになってきた。何だろうと思って調べたら、ダフ屋だったんですね。ダフ屋が子分を相談者に紛れ込ませて予約券を取っておいて、後から来た相談者に予約券を10万円とか20万円で売っている。これはマズイ、何とかして担当弁護士を増やさなければと考え、それで、いろ いろな弁護士に聞いてみると、やはりみんな弁護料をちゃんと支払ってもらえるのかどうかを一番心配していることがわかったんです。ボランティアではできな いと。それで私のやり方の講演をしました。

  代理人になったら最初はいろいろな電話がかかってくるけど、取り立てが落ちつけば生活は改善される。サラ金20社から借りているなら、11万円としても毎月20万円を返していくことになり、給料の大半は返済に充てられてしまい、また借りなくてはならない。だけど取り立てがなくなれば、給料の中から生活費を除く3万~4万円を返済に充てられるわけで、その返済原資をもとにサラ金と交渉して和解の話をつけていく。返済原資の中の5000円ぐらいを、弁護士費用として毎月もらっていけばいい。一挙にもらおうとするなという話をしました。

 ところが弁護士業界というのは、離婚とか相続の事件を受けたら着手金を一括でもらうというのが慣習であり、分割でもらうという発想がなかったのですね。でも、一括払いで弁護士に何十万円も払うお金があったら、そもそもサラ金から借金はしないでしょう。

  まずは最初に、自分が代理人になったことをサラ金業者に伝えて、それで取り立てが和らいだら、生活費に必要な分を確保してもらい、残りを返済資金として弁 護士事務所に送金をしてもらって、そのうちの一部を分割で弁護士費用としてもらえばいい。それは大変画期的なことだったようです。まぁ、サラ金だって分割 で払っているのだから、弁護士費用だって分割でもいいじゃないかと。「目から鱗が落ちました」と、たくさんの弁護士から握手を求められましたよ(笑)。そ れで、一緒にやってくれる弁護士の数も少しずつ増え、予約制もだんだんと解消されていきました。

  そうなると、ますます弁護士会は私のところに、サラ金の相談者を送ってくるんですね。ところが、そういう相談者というのはほとんどが生活に疲れた人で、ちょっと肩を押せばよろよろとよろけるような感じの人ばかり。それに、1人を引き受けるとまた翌日から何十社からも、「ぼけ、かす、この野郎」の電話がかかってくる。事務所の事務員さんも罵倒されてしまう。

  とうとういそ弁先のボス弁──私を雇っている弁護士──からまた呼び出しをくらってしまった。「あなたにずっと残ってもらうのは構わない。だけど条件が一つある。あの品の悪いサラ金事件から手を引いてくれ。どうしてもやると言うならやめてほしい」と。

 こうして、2回目の事務所も4年いて、長い間お世話になりましたと辞めることになりました。

 

 

 そして弁護士になって13年目に初めて、いま東京市民法律事務所を構えているこのビルの3階の8坪ぐらいの部屋を借りて事務所で独立することにしたのです。もちろん私が受けているのはサラ金事件しかなく、顧問もなければ一般事件もほとんどない。それでやっていけるかどうか、不安でしたけど。

 2回目にクビになったときは、私たちはこのサラ金を規制する「貸金業規制法」(貸金業の規制等に関する法律)の立法運動をやっていました。いわゆるサラ金規制法が1983年の428日に成立して、その年の111日から施行されました。それで、自由国民社の長谷川さんという社長さんが、そのサラ金規制法の 解説本を書いてくれないかと打診してきました。自由国民社というのはこれまで、大衆的な法律書を出してきた。それまで自由国民社は『債権何が何でも回収 法』とか『悪質借家人追い出し法』とか、どちらかといえば強者の立場の本が多かった。だけどこれからは、弱者の立場の本も必要だと思うから書いてほしいと。

 私としては、本を書けば印税も少しは入って来るし、宣伝にもなると思い引き受けました。『サラ金地獄からの脱出法』(『こうすれば必ず成功するサラ金地獄からの脱出法』)という本で、出たのは施行の翌月、198312月です。そうしたら、当時は類似の本がなかったこともあり、かなり爆発的に売れたんです。この本を読んで、私の事務所に相談に来る多重債務者がたくさんいました。それで、相談者一人から弁護士料として5000円とか1万円ずつもらい、50人とか100人を受ければ事務所が回っていくようになっていきました。軌道に乗っていきました。

 

 ただ一方ではやはり、弁護士事務所まで辿り着けない人がたくさんいますので、そういった人たちを救済するためには、法改正をして、このサラ金の高利をなんとかしなくてはならないと思っていました。罰則が科される金利を決めているのは「出資法」で、私が1回目にクビになった当時は年109.5%でした。出資法の他に、金利を規制する法律として「利息制限法」という法律があり、年1520%を超える利息契約は超過部分について無効となることが定められていたのですが、これには罰則がなく、当時のサラ金業者は年100%ぐらいで営業していた。それがどんどん下がっていって、とうとう2006年の法改正で出資法の上限金利を年20%にまで下げることができた。30年ぐらいかかったということですね。これで、出資法と利息制限法の間のグレーゾーン金利がなくなった。

 サラ金業者というのは、1980年代の初めは、4万数千業者10336785_693907500680835_5043811635863235998_nぐらいだったのが、2006年の法改正後は2,000業者ぐらいにまで減っています。サラ金の最大手の武富士も倒産しました。自己破産の申立件数も、2003年ごろをピークに少なくなっていきました。自殺者は1998年以降ずっと年間3万人台で、中でも経済生活苦の自殺者が増えていましたが、2006年の法改正後はこの経済生活苦にる自殺者も激減し、自殺者総数も年間3万人を切るようになりました。

 

──2000年代というと、アコムとか武富士が流行り始めたころですよね。

 大手サラ金業者は一部上場企業になって、朝から晩まで武富士ダンサーズのコマーシャルが流れていて。今は、サラ金やカード会社のコマーシャルも少なくなりましたね。

 

──そうして、2回目のいそ弁時代に個人のサラ金相談者を受けるところから始め、4年の間には立法運動に発展させていったのですね。

 そうですね。そういうことに関心を持っている弁護士や司法書士、学者などが集まり、「全国クレジット・サラ金問題対策協議会」(クレサラ対協)を立ち上げました。被害者団体もつくり、47都道府県に80団体以上被害者団体ができました。

 私が弁護士会で相談窓口づくりを始めたのが1980年の2月ですが、弁護士会の委員会の活動をする中で、大阪の木村達也という弁護士がやはりサラ金被害者の救済活動をしていたので、弁護士会とは別に、彼らと一緒に有志の民間団体として、クレサラ対協(※クレジット・サラ金対策協議会)をつくり運動を始めたわけです。

つづく