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インタビュー:緑の政治を生きる

【インタビュー】すぐろ奈緒&清野和彦 vol.2 「あなたはなんで花が咲いてるか知ってま… 

2014/08/08

 「シリーズ:自治体議員が語る」では、さまざまな議員さんたちにご自身のことを語っていただきます。そのひとの人生の物語を通して、「市民派自治体議員という生き方」に触れることで、議員という仕事を少しでも多くのひとに身近に感じていただけたらと願っています。


 今年4月に故郷埼玉県秩父市議選に初挑戦、堂々の3位当選を果たした清野和彦さん、昨年まで杉並区議を二期務め、この夏からドイツに移住するすぐろ奈緒さん。二人は学生時代、同じ団体で反戦・平和運動などに関わっていました。

 2001年9月11日の世界貿易センタービル破壊事件を経てアフガニスタン紛争、自衛隊のイラク派兵へと推移していった当時の状況を振り返りつつ、その後今にいたる10年の道のりと、これからの展望について語って頂きました。今回は第二弾。 第一話はこちらです。

聴き手:石崎大望 緑の党広報部

 

【インタビュー】すぐろ奈緒&清野和彦 vol.2
「あなたはなんで花が咲いてるか知ってますか」 

 

すぐろ1石崎 すぐろさんが政治や社会問題に関心を持ったきっかけは?

すぐろ わたし?

石崎 5歳でデモに行ったっていうのは本当なの?

すぐろ それはそう。最初のきっかけとしては、わたしは親の影響を強く受けていますね。自分が動くことで社会を変えていこうっていう人だったので。母が特に。

物心ついたころの思い出せる活動が5歳くらいのとき。横須賀でトマホークミサイルを積んだ艦船が寄港するという話が持ち上がったことがあって。反対集会に行ったのね。その準備で、自分の住んでいた地域でチラシ配りしたり、横断幕つくったりしたのも覚えてる。

そのころから戦争に関する本とか映画にふれる機会が多くて、そのたびに平和について考えたり母と話したりとかしてたから、その経験が意識の深いところにしみ込んでいった気がする。だから自然に「絶対戦争を繰り返しちゃいけない。自分自身が気をつけよう」って固く誓うようになったんだよね。

他にも、親が障害者支援とか冤罪事件の支援とか、生協、親子劇場。。。色々な活動をしていたから、一緒に行動する中でたくさんのことを学んだなぁと思う。

そういえば、先日実家で掃除をしていたら、小学校の夏休みにまとめた理科研究が出てきたのね。そうしたら、5年生のときは酸性雨について実験して、6年生で食品添加物の実験をしてたの。選ぶテーマがなかなかのセンスでしょ(笑)そんな子どもでした。

大学生の頃には、家庭裁判所の調査官になりたくて、少年法を考える市民運動に携わって。人権や教育にもすごく関心があって学んでいくうちに、そこから教科書問題や戦後補償にもつながっていって、その流れでワールドピースナウの仲間とも出会ったの。


 あ、そうそう。さっき言い忘れたけど、アジアンスパークとかワールドピースナウの若い人たちで、映画の上映会もやったよね。「教えられなかった戦争」とか。すごい衝撃を受けたなぁ。他にも、各国の大使館にアポも取らずに行って、大使に会って「戦争に加担しないでください」って説得に回ったりもしたね。


イラク特措法

 

石崎-それは何人ぐらいで?

すぐろ-10人くらいだったと思う。国会議員にロビーイングもしたし、劣化ウラン弾反対のアクションも。思いつくことは何でもやってたなぁ。


石崎 アジアンスパークのメンバーが?

すぐろ ワールドピースナウに参加しているアジアンスパークの、あとはアジアンスパークに入ってないけど若い人たちとやるときもあったし、アジスパだけで動くときもあったし。

石崎 その中心メンバーとして・・・

清野 にゃんことか中心になって。僕は遅れて。ちょっと後になって入ったかな。

すぐろ その頃は、みんなが本気で戦争を止められると思ってたよね。自分自身がワクワクしながら、「やりたい!」「やろう!」ってポジティブなエネルギーがわいてくることをやっていたから、みんな目がキラキラしてたよね。

清野 僕はあとから関わったんだけど、ショックだったんだ。まず若い人たちがやっているということにショックだった。先輩たちもずっとそういうことを、ぼくらの周りには社会運動がなかったから、こんな長い歴史の中で戦争について、核について考える人がいるんだってだんだんわかってきて。それもすごいショックだったですね。やっぱり育ってきた環境って大きいじゃない。

ナース

有事には真っ先に前線に送られる、看護師のコスプレで戦争は決して非日常ではないことをアピール

すぐろ うん。大きいと思う。

清野 そういう文化がなければね。だからすごくいい出会いだったよね。

すぐろ アホなこともいっぱいやったけどね。

 

石崎 そのころ金髪だったの?

清野 そのころ金髪でしたよ。

すぐろ その前もピンクのモヒカンだったでしょ。

p3 ブッシュダンス

2003年10月のブッシュ大統領来日時には、ハイロウズの「アメリカ魂」にあわせてブッシュダンスというパフォーマンスを展開。

清野 そう。

石崎 それは学生時代?

清野 学生…高校時代の。大学の時はそういうのがいいと思ってた。だけどだんだん違うなって。

すぐろ (笑)

石崎 (笑)

清野 外見じゃない。中身だよって思って。なんで俺はきつい服を着てるんだって。

すぐろ パツパツのね(笑)

石崎 そっから 「うさと」の服(※1)に行ったわけね。

清野 (笑)反動ですね。エッジを切ってますからね。切る人生。

 

石崎 ・・・それで林業、森林政策を学生時代にやって。アフリカにいったんだよね?

清野 はい

石崎 それはなんで行ったの?

清野 それは…社会的な活動を続けていたんだけど、僕も疲れちゃったことがあって。ある程度距離を置いたことがあったんだけど。ただどっかで、どうやったら人が幸せになれるかなってことは考え続けたんですよ。

そのときに “てんつくマン” という人がいて、てんつくマンの『天国はつくるもの』という映画でアフガニスタンからの空の映像が流れるんですよ。で、砂漠なの。で、これは「あ、森がないと人は幸せになれない」って直感的に思ったんですよ。

で、そのとき大学2年の半ばくらいになっていて、「あ、このまま大学にいるより、木を植えに行こう」って。すぐ早稲田の職員の人に相談したんですよ。そしたらちょうどそのころ、ワンガリ・マータイさんという方が、ノーベル平和賞をアフリカでとって。「その人のところに行ったらいいじゃん」って何もツテがないのに言われたんですよ。それで、手紙書いたんですよ。ワンガリ・マータイさんに。書いたんだけど、そのときはうまく受け入れができなくて、でもそこでJICAのエキスパートの方を紹介されてケニアに行くことができるようになったんですよ。

 

で、ケニアに行ってみたら、本当に日本と状況は違うんだけど、やっぱり政策が大事だなと思ったのね。もちろん僕が日本人として行って、木を植えることは大事なんだけど。それだけじゃなくて、どうしたら森を守れるかだとか、人々の心が自然破壊から、生きてくために伐ってるんだけど、自然を守る方向にいくだとか、そういうことを考えるのが大事なんだなって。

で、日本に帰ってみたら、自分は政治経済学部だったと分かって。「これ、テーマじゃん!」(笑)ってなって研究しました。アフリカの、そのころは貧困解決と自然保護がどうやって両立できるかみたいなことをテーマにしました。

 

Maathai

環境分野で初のノーベル平和賞受賞を受賞された故ワンガリ・マータイさん。ケニア緑の党の党首でもありました。

石崎 じゃあ、在学中に一年?

清野 いや、半年だけ行ってきました。

すぐろ マータイさんが緑の党の人って知ってた?

清野 知らなかった。僕は後で知ったの。で、そんときはマータイさんと会えなくて。そのあと、毎日新聞が呼んだときにお会いできたのと、大学の名誉教授にもなったんだよね。だからマータイさんに質問させてもらうことができて。

すぐろ へー、すごいねー!

清野 学生時代、どんなことを考えてましたか、みたいなことを。でもマータイさんがなんて言ったかっていうのは、「あなたはなんで花が咲いてるか知ってますか」って言われたの。「花は水をあげれば、外に向かって開くでしょ。あなたもそういう人間になりなさい」って言われました。外に向かってどんどん開いていく人間になりなさいっていうのと、「わたしは人にインスピレーションを与える人間でありたい」って。誰かに気づきを与える人間でありたいって。
だから森は、どうしたら人が幸せになるかって考えた結果、「あ、森じゃないかな」って漠然と思って行った感じです。

 

すぐろ で、大学卒業してからは日本熊森協会(※2)に入ったの?

清野 熊森は大学卒業してすぐです。

すぐろ だから森林のことで、森のことでやっていこうって。

 

石崎 その後、東日本大震災があって石巻に行くわけ?

清野 そうですね。石巻では、原発事故でおうちに帰れなくなった方々、避難されている方々の話を聞いて、自分史にまとめる活動をしていました。『3月10日』制作室っていう。

石崎 それはその土地の歴史とか、いろんな人の営みとか、モロにそういうことが話されるわけだよね。

清野 そうですね。ずっと聞き続けるって感じで。

石崎 そのなかで故郷、秩父の事を考えるようになった?

清野 それはほんとにあった。双葉町とか南相馬の震災前の姿を知らないわけですよね。だけど、話を聞いていく中に、その片鱗が見えてくるというか。ふるさとって何なんだろうっていうのは出てくる。
あと東日本大震災の被災地を岩手から富士山まで回ったことがあったんだけど、そのときも大船渡の人が、「今、この港で起こった津波は、20年、時が早まっただけなんだ」って。「本当は大船渡は津波がなくても過疎高齢化していて、シャッター街も増えていったはずだから、時計が早く進んだだけなんだ」って言われたんですよね。そしたら自分の地元も同じだなと思った。この問題の根本は。それは大きなきっかけだったなって思う。

すぐろ 先日、報道があったよね。約800自治体が2040年には消滅っていう。それと同じだよね。

清野 秩父も入ってます。

 
 第三話 「きちんと対話して自分たちで合意をつくりだす力を」 につづく

※1 うさと・・・清野さんが愛用する、草木染や泥染め、天然素材100%の服のブランド

※2 日本熊森協会・・・清野さんが勤めていた自然保護団体。奥山の生態系保全を目的とする

 

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